希死念慮

私は自分の誕生日が好きでない。

プレゼントを貰ったりするのはもちろんのこと、「おめでとう」と言われたり、話題にあがることすら好きでない。「誕生日会」なんかは恐怖の象徴そのものである。

そんな感覚を持っているので、便宜上不都合がない場合は、他人の誕生日もスルーしようとする。薄情な奴、と思われるかも知れないが決して悪気はなく、それどころか相手を思いやっての結果である。「自分がやられて嫌なことは相手にもしない」を忠実に実行した結果である。

もちろん「おめでとう」を言われた方が喜ぶ人がかなり大きな割合で存在することも知っている。特に恋人がいる時など、その一言を言わないがために起きるだろうリスクが物凄く高い場合はちゃんと言うし、人から言われたらちゃんと「ありがとう」と返すくらいの常識は持ち合わせている。ただ、自分にそういった感覚がないので、可能である状況ならば、相手の誕生日はスルーしようとしてしまう。

どうしてここまで誕生日を恐れるかは自分でもわからない。

  1. 歳を重ねることがこわいから?
  2. 誕生日に楽しかった経験がないから?
  3. 注目されることが苦手だから?
  4. そもそも生きていることが楽しくないから?

いろいろ考えられるが、「結婚式」も「誕生日会」以上の恐怖であることを考慮すると、「幸せになってはいけない、不幸でなければならない」という希死念慮的な感覚が無意識にあるのではと推測する。幸せな感覚を感じると、程なくしてそれは終わり、その後には不幸が必ず訪れるという経験則があるので、パブロフの犬如く幸せ自体を無意識に避けようとするのではないだろうか。

恋人と幸せいっぱい満面の笑みでリゾート地で一緒にツーショット写真を撮り、SNSにアップロードしていいね!をもらうなんていうのも大嫌いである。自分の中では、経験則的にこの行為は「この後その投稿を見たSNS上の男と浮気され→それを追及したら何故か逆ギレされる」死亡フラグにしか思えないからである。

フロイトはすべての人間には、生きようとする欲動と死を望む欲動「タナトス」があるとした二元論を提唱した。この二元論は最終的な欲動論とされており、欲動論は1900年前後から幾度となく修正・変更されてきた。最初の欲動論は、自己保存欲動と性の欲動であり、2つの対を成すものとされた。また、1910年頃にはナルシシズムの概念を取り入れ、性の欲動を自我リビドーと対象リビドーの2つに分類した。このような変化を遂げ、最終的には死の欲動 VS 生の欲動の二元論へと向かうことになる。

これがどう、私の誕生日嫌いに関係するのかというと、まったく関係ないのだが、フィリピンでは誕生日の人が誕生日会に皆を呼び、その人達の飲み食い代を誕生日の本人が払うという文化がある。

フィリピン人はこの日とクリスマスのためだけに一年間働きすべてを使い果たすとも言われているが、私にとっては嫌なことをやられたうえに縁もゆかりもない奴らに奢らないといけない最悪の日ということになるので、フィリピンでは誕生日を聞かれた際には適当に誤魔化し、教えなかった。私のような誕生日嫌いの方がいたら、フィリピンでは気をつけよう、という話。

最近の投稿

コアラ Written by:

Be First to Comment

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。